「ハイマツは、そこにしか生えてなかった」
発想は、体が感じた分だけしか立ち上がらない
ハイマツは、そこにしか生えてなかった
今朝、たまたまつけたテレビで、難病を持つ方が話していた。途中から見たので、どの病気かは分からない。二回、死ぬ思いをしたそうだ。そこから「生かされてる私。他者に貢献するんだな」というイメージが持てた、と話していた。
聞きながら、遠い昔のことを思い出た。
そして体験したその時の感じ方の違いに思考を巡らした。
二十代の頃、五月の山スキーに行った。ご来光を見に行く途中で足を滑らせ、滑落した。斜面を滑り落ちて、ハイマツに引っかかって、止まった。
そのとき、私が思ったのは「うわ、やっと止まった。すごい傾斜。それだけだった。
「止まらへんかったら死んでたな」とは、思わなかった。死ぬというところに、発想がいっていなかった。
凍結した斜面、ツルツルの上着ですごいスピードで滑っていった。出来事が、あっという間だったから。助けに来てもらって、無事に生還した。そのときは、それだけだった。
帰り、ロープウェイから、その斜面が見えた。
ハイマツは、そこにしか生えていなかった。
それを見たとき、思った。
私は、死ぬ時期ではなかったんだな。
テレビのあの方は「生かされてる」と思った。私は「死ぬ時期ではなかった」と思った。同じように生き残ったのに、この違いは何なんやろ。
しばらく考えて、気がついた。あの方は、死を体で感じている。病気の時間は長い。何ヶ月も、体が「死ぬかもしれない」を浴び続ける。体がたっぷり死を感じたから、生き延びたとき、「生かされた」という言葉が、体の裏付けがあってその思いに至った。
私は一瞬だった。体の警報が意識に届くより先に、出来事が終わっていた。死を感じる時間はなかった。感じなかったものは、発想にならない。
そして気がついた、あのとき私が滑り落ちていくのを見ていた人のほうが、怖かったかもしれない。本人はあっという間だったし、感じる間がなかった。でも見ていた人には、私が落ちていく時間が、まるごとあった。
出来事はひとつ。体が感じていた時間の長さが違う。
発想は、選んで持つものではない。体が感じた分だけしか立ち上がらない。
考えるより先に、体が決めている。
あの方も選んでいないし、私も選んでいない。でも、経験としては残る。
だから私は、発想を変えようとする前に、体のほうを見る。
前向きになれないのは、発想が悪いからじゃなくて、体がまだそれを感じられる状態にないだけ。
神経が緩んだら、発想は勝手に変わる。

